生は有限か?
こんばんは。
今日は、雨が降りそうで降らない不安になる天気でした。ですが、初めて話した人も何人かいて、幸せなひとときを過ごしました。
美大に所属している私ですが、今、大学の授業でドローイング課題をしています。
ドローイングとは一般的に、線で形をかたどったりすることだと思いますが、私は何でもいいかなと思います。このブログを始めた理由も、そういった一面があります。思考をまとめてるしブログをそのまま出しちゃえばいいかな、みたいな。
大学のシステムが変わってからというもの、出席管理が厳しくなったこともあり教室が人でごった返していてかなりつらい。場所がないしうるさい。絵が描けない。油彩じゃなければ家でも描ける!ということで一応、授業中ですがPCを開いてドローイングという体でブログを書いていました。ブログの書き方も分からなくてデザイン性もないたうなぎですが...、
ということで、今日書き溜めたものを投下します!!
昨日はワンネス思考の話に少し触れました。http://monopterus.hatenablog.com/entry/2019/10/01/213633
もし私と宇宙がイコールで結ばれるのなら、宇宙にも死があるのか、それとも私に死がないのか気になるところですね。
言い換えれば世界が有限なのか無限なのかということになります。
今日は、ワンネス思考を前提にして、世界が有限なのか無限なのか考えていきましょう。
その前にまず、「世界」という概念を再定義しなければなりませんね。昨日の最後の問いにもつながります。私の知覚したものが世界なのか、それとも私の知覚外にも世界はあるのか。
ワンネス思考を極めていくと、私の知覚したものが世界であるという場合に辿り着くのではないかと思います。何故かというのはまた後日記述します。
その場合、主体は脳や神経細胞になると思います。生物に死は訪れるから主体の脳が死んだところで世界は終わります。
と、私は断言できません。
私の知覚したものが世界である場合、私の知っていると思っていることは全部私の生み出した「妄想」です。
すべてのものごとがひとつであるというワンネス思考を究極的に考えると、相対的な概念が存在しないので他者が存在しなくなります。私というものも存在しません。他者が存在しないということは、物事がない(すべての出来事に前例がない)ので主体に死があるかどうかも分からないとも言えます。また、私という主体までも存在しないので、そもそも既に究極の無であるとも言えるでしょう。つまり、ワンネス思考を前提にすれば世界は無限なのです。
そもそも既に私は無であると想像してみてください。どう思いましたか?
寂しいですか?怖いですか?
しかし、時間という概念を思い出してください。時間が存在しないというのはどういうことでしょう。
時間が存在しないと考えると、有限であるとか無限であるとかそういったことも想像できなくなりました。世界が最小時間(プランク時間)単位でぶつぶつと途切れながら動いているとすれば、瞬間瞬間が死なのかもしれませんね。
ところで、多元宇宙論というものがあります。この宇宙以外にも複数の宇宙があるという考え方です。
ワンネス思考を前提にすれば、私以外にも私がいるということになりますね。トランスワールドアイデンティティーという概念があります。簡単に言えば、ひとつの物体が複数の宇宙に存在するという考え方です。ロマンがあって素敵だな、と思いました。
神は孤独じゃないんだね。よかった!
それでは。ありがとうございました。